生まれたときからパパがいた。弟も生まれ、日本でよくみる4人家庭。決して裕福ではないけれど、大切で大好きな家族だった。
中1のはじめ頃。母が重苦しい表情で切り出した、不穏な知らせ。
「パパの体の中に癌があることが分かって、今すぐ入院しなくちゃいけないの」
正直私は、当初の記憶があまりない。もう10数年は経っているのだから当たり前かもしれないけれど。当時の私とって起ったできごと一つ一つがあまりに苦しくて、記憶を消している部分もると思う。
たしかその場にパパもいた。「大丈夫だあ、すぐもどる」と、普段寡黙さを極めたパパがいつもより気丈にしゃべっていた。当時の私には、癌がどのような病気なのか全く検討がつかなかった。ケータイも持たせてもらっておらず、ネットにアクセスする習慣なかったこともあり、唯一の情報源はママやおばあちゃんたちとの会話だった。
なにより、”たとえどんな病気であっても、パパが死ぬわけない”そう信じてならなかったし、なんなら当時の私はパパが少し苦手だった。さっきも言ったように家では非常に寡黙な人で、子どもの私が”家の雰囲気を明るくしなきゃ”という使命感に駆られ(つまり気を遣って)、場を盛り上げるエンターテイナー性が勝手に磨かれていった程だ。なので、パパの入院生活が始まったときは「変に気を遣わなくてすむなあ」なんてのんきにしてたほどだった。
そう、まさか亡くなってしまうなんて、死んでも思わなかったから。
パパは入院後抗がん剤治療を受けはじめた。私は「コウガンザイチリョウ・・・?」といた具合で、すこし痛くて辛い治療を受けているんだな、くらいに思っていた。けれどいくらでも情報が集められるようになった今では、どれだけ患者さんが大変な思いをする治療かが痛いほどわかる。
そのつらさを物語るように、お見舞いに行くたび父はやせ細り、髪は抜け、、、どんどん私の知る姿ではなくなっていった。当時の私は父のそんな変化を、現実を、受け入れることがすごく怖くて辛かった。部活で疲れたことを言い訳に、お見舞いにいく頻度もどんどん減っていった。いけなかった。
パパと静かに向き合っている”死”。それと向き合うことから、私は必死で逃げていたのだ。
ママはというと、毎日、毎日、本当に毎日、お見舞いにかよっていた。病院は家からとても遠くて、往復2時間くらいかかっていたんじゃないだろうか。雨の日も雪の日もかよっていた。大切な大切なパートナーが辛い思いをする姿を近くで見守り、支えることは、並大抵の精神力ではできないことだと思う。”絶対に治る”と信じる心と、一緒に居られる時間が刻一刻と短くなくなっているのかもしれないという怖さ。辛かったと思う。父の命と向き合うことを逃げていた私は、そんな母にも寄り添うことができなかった。
これは後で聞いた話だが、ママあるときから毎日パパにラブレターを書いて渡していたらしい。パパの寡黙さは時にママに対しての態度が冷たいようにもとれた。2人が楽しく笑って会話しているところを見ると、珍しいなと子どもながらに目を見張るくらいだったのだ。そんなパパだったが、お見舞いの回数を重ねるにつれ、ママに今までで一番と良いほど柔らかく、優しい表情を向けるようになっていった。そんな2人の関係が変わっていく姿はとても美しくて、今でも私の心を満たしてくれる。
ぱぱが入院してからしばらく経ち、雪が降りはじめた。友達と「寒いね、」といいながら学校に向う。そんな他愛ない会話をしている時だけ、私は笑顔でいれた。医師に宣告された1ヶ月という寿命はとっくに越えてて、パパは誰よりも必死に闘っていた。癌と、そしてなにより自分自身の心と。正真正銘、人生を懸けた闘いだった。
消えたり増えたりを繰り返していた癌だったが、確実にパパの体は限界に近づいていた。
♢♢♢
”その時”は急に訪れた。そう、本当に急に。
病院から一通の電話「すこしお父様の様態が不安定なので、ご家族でいらしてください」
平日だったから、学校は一日休んだ。車での移動。私は必死に祈っていた。祈っていた。
病院に行くと、ピーッピーッと無機質な音。心拍数をはかる装置なのだろうか。そこには赤く数字が表示されていて、あがったり。下がったり。息をのんだ。
病室にはいつもと変わらず寝ているようなパパの姿。無事会えたものの、私は一言も声を掛けることが出来なかった。わずかでも声を発したら、絶対に泣いてしまうと思ったから。コップに水がぎりぎりにたまったような、精神状態だった。
着いてからしばらく経ったものの、思ったよりもパパの状態は安定していて、「今日は大丈夫かもね」なんて話していた。私は病室の外をうろうろしながら、声をかけるタイミングを伺っていた。と言っても、もう会話することはできない状態なんだけど。
フっと、病室内が静かになった。つきっきりだったママも弟も、一瞬席をはずしていた。看護師さんもいない。”今しかない”と、パパのもとに駆け寄った。
チューブがついた顔、やせ細った体、、、目をつぶっていた。当時の私が考えていたことはなんだろう。今までの感謝?行かないでという気持ち?ただ、私は今にも泣き出しそうな声でひと言
「パパ」
と言った。パパの手にそっと自分の手を重ねながら。
すると次の瞬間、パパの様態が変化した。私には分からなかったが、すぐに看護師さんがやってきて、母と弟を急いで呼んだ。そこからはあまり記憶がない。ただ私はパパに触れながら、赤い数字がゼロなるのをじっと見ていた。
泣きじゃくる弟とママ。ふたりの声を聞きながら、ひとり無言でうつむく私。涙は流さなかった。
私は泣いてはいけない、と子どもながらに思ったのだろうか。今思えばまったく冷静ではなかったはずだけれど、泣いてもパパは帰ってこない。とにかく感情を無にしようとしていた。
パパは、私が来るのを待っていた。「パパ」というたった一言を待っていた。こんな時まで強がりな私の気持ちは、伝わっただろうか。悲しさが、寂しさが、行かないでという気持ちが、大好きだよという気持ちが。
私はこのとき、思いっきり、泣かなかった。その後遺症なのか。何年経っても、父との最後を想い涙が溢れて止まらない時がある。もう何十年も経てば、さすがにもう良いだろうと思うのだが、いくつに経っても泣きじゃくってしまう。このブログを書きながらも数度、声が出るほど涙を流した。
この話を通して、不幸自慢がしたいわけじゃない。悲劇のヒロインになりたいわけでもない。
私と同じように、親や大切な人を亡くした悲しみに暮れているひと。その悲しみや孤独、寂しさ、不安。その感情の行き場に困り、ひとりで抱え込んでいる人が1人でもいるのなら、その想いを共有したい。そのひとの心に、わずか数センチでも良い、寄り添わせて欲しい。そんな想いで綴っていました。
この文章を読んで、貴方は1人じゃないことを知って欲しい。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。
大切な人との別れを、私がどのように捉え、乗り越えていったのか。それを次のブログで書けたらと思います。
おやすみなさい^^